稽古場レポート第十六回 – 11月28日

投稿者: dcpop13aqua

『アクアリウム』の稽古場レポート、第十六回をお届けします。

突然のお報せですが、筆者が稽古場を見学したのはこの28日が最後になりますので、レポートは今回が最終回です。ここまでこの常軌を逸した長文連発のレポートをお読みくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。イェイ。Twitter等で感想くださった方、縁もゆかりもないのに宣伝してくださった方、遅蒔きながら御礼申し上げます。おそらくここまでレポートを読んで、『アクアリウム』の上演を観に行かないというひとはよもや(中略)拙文によって少しでも『アクアリウム』に興味持たれたなら、是非、チケット予約をよろしくお願いします。できれば複数回観劇していただければ幸いです!

さて、稽古日も残り四日を数える28日は、先日のようにばちばち動線を整理していくのかと思いきや、中盤からの丁寧な返し稽古で、台本の解釈、科白のニュアンスを詰めていきます。谷演出の目から見れば前半に比べて後半部分はまだまだ成立していないと感じるパートが多く(とくにラスト付近はほとんど稽古をしていないので)、丁寧に波長合わせをしていくしかない、というふう。25日と同じように、解釈のレベルでの丹念なダメ出しがつづきます。「『いやこれホントやばくて……』からの科白は、そんなに冷酷にやらなくていい。『じゃ何でさっき……って言ったの?』の科白までの怖さでもう完全に相手を追い込んでいるので、それ以上怖くする必要はない。むしろ自分はそんなに悪い人じゃないんだよ、って善人ぶる感じのニュアンスで。『いや、ゴメンね!?』って言っているようなトーン」「そこでのUは落ち着きすぎ。『一旦は帰りますけど絶対に出て行きますからね!』っていう言い争いを相手と外でやって、それから自分の部屋で苛々しながら荷物まとめて、『くっそ、どうせ出ていくならこんなルームランプとか買わなきゃ良かった!』とか苛々して、荷物を背負って、そういう裏設定があってここに入って来るわけだから、そんなラオウみたいにテンション低いはずがない。……まあ呼吸だけは演技的にコントロールできないから、頭に血がのぼった状態を作るために、出てくる前から息を止めるとかしてみたらいい」「『俺はビルを見てる』──この科白は、少し自分に向かって言うような感じが欲しい。その前にこのTは『クリスマスも正月も意味ないよ!』って軽い口調で言うけど、でもそうなるともう自分の人生には華やかなものは何もないんだってことに、彼は気づくわけだ。実際、Tには夢も希望も結婚願望も無いんだろうし、今後もルーチン的にずっとビルの映像を監視するだけの生活、その長ーい廊下を想像して、気が振れそうになっている感じを、科白を言った後の間で出せると、渋い」……いや、ほんとうに、こうして台本外で想定される文脈まで補完しつつ、俳優の役の形象化をじりじりとイメージどおりのものへと近付けていくのです。しぶとく。

そして、この返し稽古の過程で出て来た名言が、「うんこ」。われわれはこれを谷賢一語録として永遠に銘記したい想いを禁じ得ない。どういうことかと言うと、Sという登場人物の、非常に苦悩しながらも、あまり芝居として「動揺したひと」をやり過ぎないようにしつつ語らなければならないという難しい数々の科白があるのですが、それらの科白を出すためにどういう意識を持つべきか、俳優にアドバイスする際に、ふっと谷演出の口から出て来たキーワードが、ずばり、「うんこ」。「Sの『僕はやっぱり……』これね、俺すげーいい喩え見つけたんだけど、うんこ出すみたいな感じで喋って欲しい。今なんかスルッと出てしまっているんだけど、この科白の言葉のかたまりを、ぶりぶりって踏んばって出さないと、喋れない、みたいな感じで。音が強いとか弱いとかじゃなくて、基本は言葉を出すときに、そのうんこが大きいか小さいかということなんだ。大きいなら、出す前に頑張って力まなければならないでしょ?」──名言誕生の瞬間です。それからはもうSの俳優に対するダメ出しはほぼうんこの喩えに終始しました。「『俺らさ』これもうんこ。張らないでいい」「『僕は彼とは違う』全部うんこで出して」「『それが同い年だってわかった瞬間……』一息で、前言語状態でうんこ出す感じ」「『でも僕は多分、彼とは違う色の……』うんこが小せぇなー」「『どうもすみませんでした』これもうんこで言える?」「『やっぱり、出頭してみます』うんこうんこ」。ふざけているわけではない。聞いている俳優陣は全員真顔です。おそらく感覚としては“言葉によってフタをする”という衝動の強さとそれを抑える葛藤のイメージを、より生理的に身体に落とし込みやすいよう工夫した比喩として、「うんこ出す感じ」という指示が生まれた。俳優とのあいだでイメージを共有するということは演出家にとって永遠の課題なのでしょうが、そのための言語的工夫誕生の瞬間を、われわれはこの日、目のあたりにすることができたと言えそうです。

もちろん、返し稽古を進めながら、動きの整理や、位置取り、ニュアンスの微修正も同時に行なっていきます。──動きの整理で一番面白かったのは、Kという人物が「Yちゃんも、大丈夫?」と部屋を出て行こうとする人物Yを呼び止める局面。まずは普通に俳優が、出て行こうとするYを振り向いてみてからこの科白を言ったのに対して、谷演出は、「Yちゃんも」は振り向く前に、目線を前にしたまま言ってくれ(そして「大丈夫?」で振り向く)と指示。これで何が変わるかというと、この局面が、KがYの方を見もしないのに、アンテナを張り巡らしていてYが出て行く気配を察知して呼び止めた、という印象に変わり、ちょっとKが策士というか、サイコキャラに見えてきて局面全体にサスペンス色がついた。実際、ここでKは非日常な精神状態にあるので、この些細な動きの変化によって一連のシーンの緊迫がより一貫して感じられるようになったのでした。──位置取りに関しては、見学者の立場では見切れ(重要な人物が見えない)やバランスを気にしての動線の工夫が面白かったです。いちいちこんなところまで手を入れていくのかと。と或る局面では、上手に人が寄りすぎなので、ここでKが下手のソファーに坐れれば良いんだけど……と谷演出が言い出して、Kをいかに下手に動かすかをそのとき舞台にいる全員で考えることになった。ここでSが一歩内に寄ったら、Kは下手に行けるんじゃないだろうか? すぐに行かないで、しばらく話していて、SがTに●●●を渡した後なら行けるんじゃないだろうか? Sが坐ったらKも坐るというタイミングにしたらいいんじゃないだろうか?……ほんとうに細かい試行錯誤をして、いかにKを不自然でなしに下手に行かせるかということを全員で協力しながら実現していく。おそらく、稽古場見学していなかったら何気なく見過ごすシーンです。そんなところまでも調整が入っていく。──ニュアンスの微修正はもうわけの分からないレベルで細かい。一番うへぇと思ったのはKの「いや私はないけど」の科白に対してのダメ出しで、「やり方はどうでもいいけど、できればちょっと戸惑い気味の、『実はあるけど』の感じを出して欲しい。実際にあるのかないのかは、科白の上では分からないけれど、観客にもしかしたらあるのかも?と想像させてくれると凄くいい」との、指示。細かすぎるだろ……しかし台本全篇にわたってほぼ科白ひとつひとつにこういったニュアンスの色をつけて行きます。それは必ずしも以前の指示と一貫しているわけではないけど、舞台芸術は生き物だから変えるものは変えるべきなのは当然。ともかく、ダメ出しの密度が尋常じゃない。今日に限ったことではありませんが。

そして、返し稽古の成果を確認する意味で、18:00からの通し稽古。返し稽古で詰めたところを越えて、ラスト近くまで止めずに通していきますが、ラストに差し掛かってからは、ちょくちょく小返ししつつ、なんと台本をリアルタイムで改稿し始める谷演出。「ここ、科白二行カットします」「『でもビルはもううんざりだな』カット」「次の『ホントに?』から35頁まで全部カット」「『でさぁ』から9行後までカット。代わりに別の科白が始まります……ちょっと口頭で伝えさせてください」等々。たしかに改稿によって冗長な部分がなくなり、平凡だったやり取りも少し可笑味のある短いやり取りへと圧縮されて、おそらくラストで谷演出が狙っているだろう雰囲気へと、一言一言が洗練されていく。でも基本的にはがつがつ削る。カットしまくり。以前ワークショップの場で谷演出が「劇作家にとっては、何を削るかということの方が重要」と言っていたと記憶しますが、その言葉を想起させる通し稽古の延長での、リアルタイム改稿でした。

その後、また終盤入口から返し稽古をやって、本日の稽古は終了。では今日以降の稽古はどうなるか。たぶん、まだラスト付近の動きと演出が突き詰められていない部分を、返し稽古をしつつ整理して、それ以降は、抜き稽古と通し稽古が主体になるのだろうと予想されます。この点については飯休憩のときに東谷英人さんから興味深いお話を聞けたので、以下、ざっくりその話を要約してみます。東谷さん曰く、今回は完本が遅れて時間がないので、こうやって荒っぽい返し稽古をつづけていくしかない。単に流すだけの頭からの通しなら現時点でもできるけど、動きが整理されていない今、それをやっても意味ない。ただ、目下谷演出から相当細かく動きを指定されつつの稽古になっているけれど、ほんとうは、そうした動きを俳優自身のアイディアで出せたらいい──時間が十分あれば出せたかもしれないのに、こうやって細かに指示に従うだけでは、対応力が問われるだけになる。(顔合わせの時点ですでに完本しているといった具合に)時間があって、自分で台本を読み込めて自分で動ける俳優がそろっているなら、本来演出家のちょっとしたサジェスチョンだけで十分なのだ。そういう現場の方が俳優としてはやりがいがある。でも今回の現場がやりがいがないってわけではなく、ダルカラの現場はいつも発言を全員で回していく感じあって、非常に健全。作・演出がすべてを決めるというような空気はない。とまれ、自分としては、通し稽古を早くやりたい。通し稽古をしなければ、全体を通じた感情のダイナミズムとか、動機の一貫性とか、自分の腹に落ちないことが多すぎるので。……

とはいえ、残りの稽古日はあと三日。まだ演出が明確についていないシーンもあり、最後まで余裕のない前のめりな稽古がつづきそうです。では、次回のレポートに……つづきません。

28日の稽古場のレポートは以上です。

最終回は谷主宰の字数制限ブレイクの許可を得たので、書きたい放題書かせていただきました。ほんとうは毎回これくらいの密度で書きたかったのですが、「読者がついてこれない」「稽古場見学した上でそんな超長文レポートを書く時間はない」という理由から断念していたのです。しかも、今回のレポートでもまだ書きたかったけど書かなかったことなどありますので、いかに『アクアリウム』の座組が日々濃密な稽古をしているか、ご想像いただけるだろうと存じます。

書く/読むという行為は、他人と何かを共有するためにはまどろっこしい方途だと思います。演劇の稽古について知りたければ、実際役者として参加してみればいい……実際スタッフとして現場に貢献してみたらいい……実際誰かの下で演出助手に就いてみればいい……実際自分で作・演出してみればいい……つまり、他人と何かを共有するための時間のズレは短ければ短いほど、いい。じっくり時間を掛けてレポートを書いた/読んだからって、本質的な理解が深まったりするわけじゃない。たぶん、こんな連日の長文稽古場レポートを書くバカは後にも先にもいないでしょうが、それは当然で、演劇に携わるんだったら、レポートを書くよりやるべきことが他にあるからです。

今回こうして自分が稽古場レポートの執筆を担当したのは、私的な動機からです。いずれにせよ書いているあいだ、レポートが読まれているという実感も宣伝に役立っているという実感もなかった。それでも、「読む」行為によってこのレポートの内容を共有してくださった方が少なからずいたらしいことに、自分も、図らずも『アクアリウム』に何かの貢献はできたかしらと、書き手として胸をなで下ろします。ありがとう。そしてDULL-COLORED POP 第13回本公演『アクアリウム』を、是非ともよろしくご観劇願います。

それでは。私も普通の観客に戻ります。みなさま、劇場でまた同じ空間に居合わせられるときまで、so long!

【今日のというわけではない一枚+α】
最終回なので切り口を変えます。一枚目は、11月14日の稽古のときの、読み合わせの稽古中の写真です。読み合わせとはいえ半分芝居しながらの稽古になっていますが、役者の方々が台本を片手に持ちつつの稽古になっているのは、見て取れると思います。また、このシーンに登場することになってはいても科白が無い方は、基本的に坐ったままでいる。
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そしてこちらは、同じシーンを11月26日に稽古(立ち稽古)しているときの写真です。科白があって場に主に関与しているのが大原研二さん、一色洋平さん、中林舞さん、東谷英人さんという点は変わらなくても、全員が稽古用のセット内でのポジションについて、目の前で起こっていることに何らかのリアクションを取っていきます。当然科白は入っているので台本は手に持ちません。
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