谷賢一からY氏へのメール(12/8)

投稿者: dcpop13aqua

From: Kenichi Tani
Sent: 2013年12月8日 0:12
To: Y
Cc: 元田暁子, 福本悠美
Subject: Re:頼まれてもいない宣伝レビュー草稿

Yさんへ(CC: 元田 福本)

レビュー。
と言うよりは、批評?
と言うよりは、批評を通じた自己表現。
拝読しました。

批評とは何か、ということについては、僕はスーザン・ソンタグの『反解釈』、
これにほぼすべて依拠しているわけですが、
この物語を「解釈」することを通じて、Yさんという人間性が顕になっている気がします。

稽古場に長くいた分、それはもちろん一度観たお客さんより深く読んでいるとは思いますが、
それ以上に、Yさん自身の人柄や主義主張、世界観が現れており、
僕はそれを悪いこととは言っていない、むしろ批評という文章活動はそういうものなのです。
であるからして、僕はこの「批評」を、大変興味深く拝見しました。
答え合わせのようなことは致しません。ただ、ありがとうございました、とだけ。
いくつか、僕以上に読み解いた部分があることは、畏敬の念を込めて賞賛しておきます。


———-Original Message———-
From: Y
Sent: 2013年12月7日 11:32
To: DULL-COLORED POP
Subject: 頼まれてもいない宣伝レビュー草稿

福本悠美 様

拝復、
迅速のご連絡ありがとう存じます。Yです。
今回のメールは特に福本さん宛というのではないのですが、きっかけが「いかがでしたでしょうか。/是非ご感想、お伺いしたいです!」という福本さんのお言葉だったので、こういう形にしています。
というのは、実際その感想を書き始めたら、しかも些事ではなく本質的に自分が受け取ったことをそのまま書こうとしたら、どんどん長くなり、これはプレビュー期間後のちょっとした集客宣伝のためのレビュー(特設サイトに上げる)として体裁整えたら面白いかも、と思い付いたので、頭から書き直したのです。それが、以下に添付する文章です(3500字)。内容はネタバレを避ける意味もあって非常に抽象的です。なので、文体としてはあからさまに宣伝風に、口語的にしています。
えーっと。でも、この文章をどう取り扱うかは、お任せします。個人的には、これが特設サイトに上がったら面白いと思うんですが、宣伝になるかは全然分かりません。とにかく書き上げたのでお送りします。この文章の処遇についてご指示ありましたらリプライ願います。ご面倒かけてすみません。
それでは。
                敬答

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■宣伝レビュー、みたいなもの

劇団DULL COLORED-POPの『アクアリウム』。面白いぜ。観に行けよ。

え、観に行く暇がないって? 年末近いこの多忙な時期に演劇観に行く時間が割けないって? スマホ世代のわれわれ現代人にはわざわざ劇場まで足を運ぶ移動時間でさえ惜しいって? あっそう。じゃーそこ坐って。そこに赤い椅子あるでしょ。さ、坐ってくれよ、これから俺があんたがシアター風姿花伝に行く気になるまで『アクアリウム』の面白さを耳にタコができるくらい説明してやるからさ。どうぞ遠慮せず。ささ、腰を下ろして。おや? こんなところに職場でもらったシュークリームが……いやいや大丈夫大丈夫俺はいきなりシュークリームを投げつけたりなんてしないから。いきなり「観に行けやクソがーーー!」とかね、わたくしジャパニーズ紳士なんでそんなこと口にするはずはありませんね。さ、坐って。

『アクアリウム』の面白さを説明っと。さて。じゃあ、最初からきわどい話題に触れていこうか。……戯曲『アクアリウム』のモティーフの一つには、1997年の酒鬼薔薇聖斗事件があるっていう話だ。知ってた? まあ作・演出の谷賢一氏が方々で言及してるんだから特に秘すことじゃないんだけど。事件そのものは有名だね──事件は神戸市須磨区での連続児童殺傷事件として知られているけど、とはいえ、そこからさらに酒鬼薔薇少年自身のプロファイルを遡っていくと、自己破壊とも他者加害ともつかない人間の本質的な欲動の暗部を直視するようで、なかなか恐ろしい。彼のそういった側面についてももう数多の文献が出版されているので、谷賢一氏も当然それらに目を通しているにちがいないね。でも、別に『アクアリウム』は酒鬼薔薇聖斗のドキュメントをやろうって作品ではない。酒鬼薔薇聖斗の問題に素手で取り組みつつも、事件について今新たな解釈を提示しようという作品でもないんだな。なら、何か。

谷賢一氏は酒鬼薔薇聖斗を非常に個人的なものとして召還する。つまりあなたの/私の個人史における一つの忘れがたい記憶として。

なあ、人間って、怖いよね。俺は怖いよ。他人は何を考えているか分からないし。人間怖い。それは普通の隣人だと思ってた少年が実は殺人鬼だった、というような怖さではなくて、つねに彼の言葉ひとつで、彼女の視線ひとつで、あのひとの身振りひとつで、自分一個の存在が脅かされるということもあるのが残酷だ、って話なんだ。こいつは世代の問題もあるかもしれない。高度経済成長なり、福祉国家の永続性なり、冷戦構造下の安全保障なり、一億総中流社会なり、終身雇用なり年功序列なり、まあ何でもいいけど、そういう社会的包摂の力を全然信じられなくなった90年代以降に大人になった俺たちは、ひどく砂粒化した個人として、「信頼」とか「愛情」とかいうモノを扱うのに、あまりに臆病になっているのかもしれない。他者に触れることは怖ろしい。生の実相を覗き込むことは怖ろしい。火傷しそうなくらいに。なあ、たしかに酒鬼薔薇聖斗は社会の中でイビツな存在だったろうさ。きわめつけの。だけど、いくらかでもイビツじゃない一個人なんてこの世にいるのかな? 鏡の中のあんたの笑みには嫌らしい色が浮かんでないかい? 通勤電車に揺られるあんたの平衡感覚は正常かい? あんたが恋人と一緒にぼんやり雲をながめている時だって、世界には亀裂が走ってやしないかい? 人間は怖い。過度の被害者意識。身近な人間への攻撃性。内奥の罪悪感。ドス黒い自己嫌悪。最愛のひとへの殺意……。

戯曲『アクアリウム』のメインの舞台は「おさかなハウス」と呼ばれるシェアハウス、登場人物はそこに住む男女だ。そんな彼らの表層的な人間関係が、ある椿事をきっかけにグロテスクに内破していった果てに、酒鬼薔薇聖斗のテーマが接続するのは、必然だと言っていい。人間関係の平衡が崩れてぐにゃっとしたものが出てくる。誰もの顔に小さな歪みが浮かんでいる。作品中、酒鬼薔薇聖斗のテーマの浮上は、出来事が因果的に連鎖していったために可能になるのではなく、何かの記憶が無意識に浮び上がっては消えるという明滅をくり返したあとに、不意に包装紙を解かれたかのように、あらわれ出る。登場人物の誰もが他者との関係性においてイビツさとは無縁ではあり得ないと思い知らされたあとに、或る飛躍が起こる。それは、通常の会話劇だったらあり得ないような、思い切った飛躍だ。とりあえず『アクアリウム』の見どころを一点挙げてみよと言われたら、俺はここを挙げよう。酒鬼薔薇聖斗が、何故か現代のシェアハウスに似合わしくなる瞬間。この瞬間を実現するためになされた谷賢一氏の脚本構成上の挑戦を、是非感得してほしい。この飛躍を可能にした、そこまでの対話の精緻さと演出の機微を、是非見てほしい──なにせ「坐ったら。」みたいな一言にさえ微妙なニュアンスが要求されるレベルだぜ。

おっと。こんなふうに言ったからって『アクアリウム』が深刻な、しかつめらしい作品だと思われると困るな。『アクアリウム』が酒鬼薔薇事件を社会派戯曲みたく扱ってるわけじゃない、ってのは当然として、『アクアリウム』の面白さを伝えるには、もうちょっと言葉を付け足す必要がある。簡単に言うと、これは相当笑える作品なんだ。アホ過ぎて笑える。人間って怖い。他者に触れることは怖ろしい。酒鬼薔薇は狂ってる。でも笑える。おかしいと思うかもしれないが……作品の縦軸として現代の閉塞感、酒鬼薔薇聖斗、シェアハウスにおける人間関係、といった要素を垂直にきちんと積み上げたからこそ、横軸ではパッと見面白いものなら設定的にも演出的にも何でも詰め込むことができるようになった、というふうだ。稽古場見学した立場として言うんだけど、脚本にはなくて演出で付け加わった要素っていうのは、大体作品のおバカ・レベルを向上させるのに寄与していた。場当たりでの演出変更でこのおバカ・グレードはさらにアップしたと思われる。しかしそれも無意味なはしゃぎっぷりというのではなく、縦軸で抉った暗部を横から相対化するために全部きちんと物語に絡んでくるんだ。笑えることにも必然性があるわけ。公演案内に書かれていた谷氏の「とても暗く、悲しいテーマなので、とても明るく、楽しめるお芝居にしようとして、苦心惨憺いたしました」という言葉は文字通り受け取っていい。そして、酒鬼薔薇聖斗と「おかあさんといっしょ」が同居するこの作品のキチガイじみた振れ幅を、考えないでほしい、ただ、感じてほしい──。意味が分からないって? じゃあ観に行ってもらうしかないな。

最後に、タイトルの「アクアリウム」についても触れておこう。実は、これもまた縦軸のテーマの暗さを相対化するためのモティーフの一つだが、横から明るさをぶっつけるというよりも、むしろ全体にぼんやり薄明がかぶさってくるというイメージだ。だからそれは、単純に楽しさや笑いに寄与しているわけではない。或る暗晦で残酷なものが通過して、シェアハウス内の人間関係に無数の傷が残ったのち、もしかしたら、「アクアリウム」は一つの「救い」のように微温的に機能するのかもしれないが、でも、それもポジティヴな意味での救いなんかではない。と思う。突飛な連想かもしれないけど、ここで思い起こすのは、フランツ・カフカがマックス・ブロートを相手に語った次のような会話なんだ。
 「われわれの世界は、単に神の不機嫌、調子の悪い一日にすぎないんだよ」
 「それじゃわれわれの世界というこの現象の外には、希望があるということなのか?」
 「ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。……ただ、われわれにとって、ではないんだ」
作家としての谷賢一氏は安易な救済の誘惑にはのらなかった。救いはある。希望はある。でも残念ながらそれは酒鬼薔薇世代にとってではなく、「おさかなハウス」の住人たちにとってでは、ない。なんか不機嫌で調子の悪い明日は昨日までの今日と相変わらずだ。そして、それまでのおバカな笑いも抱腹絶倒のおおはしゃぎも、一切を明るい絶望のなかに突き落とす「アクアリウム」の虚無的な水音が大きくなって後に、おとずれる、最後の会話と、最後の照明変化。……それはもう、あんた自身が自分の目でたしかめてみるしかないね、その切実さを。

えええ? やっぱり意味が分からないって? だーかーらー、観に行けっての。そうすりゃ俺の言ってることも分かるから。え……ほんとに時間的余裕がない? 嘘つけ。忘年会ひとつすっぽかすことくらいできるだろ。あんた、ハム将棋相手に全駒して遊ぶ余裕はあるのに演劇は観に行けないってか。深夜までCiv4やってる余裕はあるのに演劇は観に行けないってか。いや知ってんだよ、あんたがニコニコ動画に「まおー」とかいうハンドル名でCiv4のプレイ動画を上げてることは! 何が「まおーの文化勝利狙いでがんばる動画(^○^)」だよおっさんのくせに……え、ほんとに観に行かないの? マジで? こんなに俺が長々と『アクアリウム』の面白さを説明してきてやったのに? なんでさ? ちょっと目白駅まで足を伸ばせばいいだけなんだけど?

ちっ。クソが……(とシュークリームを手に取る)。

(文責:Y 観劇日:2013年12月6日/プレビュー期間)
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